【コミュニケーションを考える①】GLOCAL?

tmymy2005-07-24

【コミュニケーションを考える】シリーズは、広告やブランドコンセプト、その他のプロモーション施策、あるいはメディアでの単なる主張について、気づいたことを述べるコーナー写真画像付で述べたいと思う。

第一回目は、私の母校でもある早稲田大学の「GLOCAL UNIVERSITY」である。
添付画像のように、「GLOCAL UNIVERSITY」は、バイラインである。
「顧客に提供するものは何か?」を述べたショルダーを「タグライン」、
「われわれは何であるか?」を述べたものを「バイライン」と呼ぶ。
早稲田大学は、GLOCALな大学だ」と言いたいのだろう。
これを、スローガンとして提示している。

添付画像は、私のようなOBに送られている「カレンダー」だが、毎年重宝している。1年分まとめてあるからだ。確か、去年も送られてきたと記憶している。

大学だから、ターゲットは1に「受験生」そして「受験生の親」、また様々な意味で「OB・OG」もターゲットである。

問題はこの「GLOCAL」だが、それほど魅力的に見えるだろうか?
以下は、大学のHPからの引用である。

「現在、経済社会におけるグローバル化、ボーダレス化および知識集約化や地域主義の興隆、地域的個性の重視と文化の相互理解の深化など、あらゆる分野で世界的な規模の劇的な変化が急速に進行しています。」

「glocal」は確かに近年の世界の動向を表す言葉としては、正しいかもしれない。誰しもが、グローバリズム/あるいはそれへの抵抗の文脈で、社会活動を行っている。しかし、私は2点から、この言葉に違和感を覚える。

グローバリズムの対は「ローカル」なのか?、ということである。例えば、「単一民族神話」のようなものは、今でも日本にあるが、それがローカルなのだろうか?決して、ローカルではなく、「国家」という制度と結びついている。従って、「ローカル」として曖昧にしているだけでは、何も見えてこない。

②あまりにも「当たり前」のコンセプトで、「当たり前」の大学にしか見えないということだ。総合大学だが、早稲田はもっと別のブランドコンセプトが出せるし、出してしかるべきと考える。あまりにも、凡庸すぎるコンセプトで、提示する意味がない。

恐らくは、このコンセプト、非常に無難なものとして考えられている。そういう無難さを大事にするような意味が、果たして早稲田大学にあるのだろうか。
伝統的には「東大」「京大」「慶応」と差別化されてきた経緯が、早稲田にはある。それは決して「無難さ」を意味するものではなかったはずだが・・・

ゲームtoゲーム

ホリエモンVSフジテレビも一段落したので、ここらで一つ書いておこう。

①「ホリエモンは放送+通信の融合についてビジョンが曖昧」という批判について
確かに、ホリエモンは「通信と放送が融合したら、おもしろい」という程度のことしか述べていないし、「インターネットが、いずれ放送を食ってしまう」というのも、誰しもが予期するところだ。実際、ライブドアがフジテレビと結びついたところで、現段階ではコンシューマ全体には大きな変化は無い。ホリエモンのビジョンが曖昧だったのは当然で、現段階では「みんなが、想定範囲のことが実現する」程度だろう。ホリエモンにそこまで期待するのは、酷である。


ホリエモンの「フジ買収企て」の評価は?
となると、今度のホリエモンの動きは、どのように評価されるべきか。
評価視点は3つ考えられる
A:メディアの視点
B:経済の視点
C:社会の視点

A:①とほぼ同義だが、「インターネットと放送の関係性」を明るみに出したこと。テレビとインターネットの違いだけではなく、「テレビの力は依然大きいが、インターネットがそれとは別の次元で力を発揮しており」、その関係がよく見えてきたことだ。ただし問題なのは。このAの視点が「騒動の本質的争点」だが世間的にはよく理解されずに終わっている。もちろん、インターネットの世界では別だが。恐らく、何年か後には、メディアは「ホリエモン騒動以前:以後」を境とする変化を遂げる。

B:これが最もわかりやすく、広範に形成された文脈だ。「M&A」という経営手法に注目が集まり、ビジネスの世界でも、「明日は我が身」とばかりに情報収集〜吸収が行われている。あるいは、日本型資本主義の終焉を告げるものとして、広く理解されたのかもしれない。「日本に無いのは経営だけ」だとするならば、これもまた「経営の必要性」を示す一つの事実となる。

C:社会的な視点では、実に多くの問題が噴出した。「ホリエモンというキャラの好き嫌い」〜「若手VS老人」「ニューエコノミーVSオールドエコノミー」のようなところまで。この問題は全ては、「社会的合理性をどこに見出すか」という問題につきる。ホリエモンは「テレビ局が今のままでは、社会は合理的なのか?」という課題を提出したわけだ。そのような「大それたアクションを行うキャラ−ホリエモン」への批判や歓迎を含めて、話題化された。「将来を考えたときの合理性」については、答えは自明だ。

「器用さ・不器用さ」

以前から気づいていることだし、みんなが気づいていることかもしれないが、時々「不器用さ」が誉め言葉になることがある。

曰く、「●●●は不器用な奴だ、だけど、奴の▲▲▲への思いは・・・」というような言葉。主に、年長者が年下の者、あるいは後輩に向けていう言葉だ。あるいは、女性が男性に対して「母性」を感じたときに言う言葉?

さっきも「情熱大陸」で「20歳の俳優・森山未來」について、そのような人物批評がなされていた。

だが、翻って見るに「器用な奴」など居るのだろうか。

なるほど、私も20前後には、人並みに、「自分に不器用さを感じたり」「他人の器用さにコンプレックスを感じたり」という事はあったし、友人たちとそのような会話をしたこともある。

しかし、今周囲を見渡しても、「器用な奴」など居るようには思えない。多芸な人間を「器用」というのだろうか、「世渡り」がうまい人間を「器用」というのだろうか・・・。確かに、「多芸な人間」は居るし「世渡りがうまい人間」も居るし、知っている。だが、彼らを器用というのとは、ちょっと違う。

また、「器用な人間」というのが、イコール「成功者」ではないし、「器用貧乏」というほどな人間も、そうはやたらに居ないことも、明らかだ。


こんな風に思うのは、世の中が変わったからなのか、私が歳をとったのか・・・いずれにしても、問題設定の変化に気づく今日この頃。

bk1に書評が出ています

10月の終わりごろでしょうか、bk1に書評を送りました。
その後忘れていたのですが、UPされているようです。

http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_rev.cgi/3d3667e794de50107022?aid=&bibid=00603037&volno=0000&revid=0000380364